あの日。大津波に飲み込まれ、全校児童108人中、74人と教職員10人の未来が失われた石巻市立大川小学校。大川小は北上川河口から約3.7キロ離れ、市の津波ハザードマップで浸水予想区域外だったが、無情にも津波は川をさかのぼり、尊い命を奪っていった。
大川小の悲劇はこれまで何度も報道されてきた。その惨状を知っている人も多かろう。大川小の児童の遺族が市と県に損害賠償を求めた訴訟で、学校側の過失を認めて、遺族側が勝訴した二審仙台高裁判決が昨年10月、確定した(最高裁が市と県の上告を退ける決定をした)ことは記憶に新しい。
河北新報社報道部の連載を書籍化した『止まった刻 検証・大川小事故』(岩波書店)を読んだ。この連載は2018年度の新聞協会賞を受賞している。あの日、大川小で何があったのか。安全なはずの学校で、なぜ多くの犠牲を出さなければならなかったのか。そして、その責任はどこにあるのか。その検証が、約200ページにわたり綴られている。
「当時、学校にいて生還したのは児童4人と教務主任のわずか5人。全校児童108人中、74人と教職員10人の未来が失われた。(40ページ)」
「大川小の裏山の麓で児童の遺体が次々に見つかった。行方不明4人を除き、犠牲となった児童70人中、ここでは34人が折り重なるようにして息を引き取っていた。(略)。その日の捜索を終え、遺体をトラックに積み込んだ。目立った外傷もなく、眠っているような顔。泥と血にまみれ、性別も分からないほどむくんだ顔。感情を押し殺し、黙々と運んだ。(54〜55ページ)」
私が大川小学校(2018年に閉校し、二俣小と統合)の震災遺構を訪れたのは、2020年2月11日。ちょうど月命日だったからか、20人ほどの人たちが慰霊碑に手を合わせたり、無残な姿をさらけ出している校舎を思い思いに見つめたりしていた。なかには、震災後に生まれたであろう、小さな子どもを連れている人の姿もあった。その子どもはこの場で何を思ったのだろう。
建物の骨格がむき出しのまま残った校舎。津波が到達したと思われる15時37分で止まった時計。2階の教室の天井に残る、黒い津波の跡。根元から折れて、なぎ倒された渡り廊下の支柱。瓦礫は児童たちが約50分間とどまったという校庭には雪が積もっていた。慰霊碑に手を合わせて冥福を祈る。胸がつまる。
「「あの日まで」「あの日」「あの日から」があって「これから」がある。地域や学校、子どもの様子を丁寧に話すことが、「あの日」をより伝えるんじゃないかと、最近強く思う。(略)。あの場所に「風化」はない。今を生きる私たちが、なぜ校舎を残したのか。きっと未来の人たちは考える。今と未来をつなぐ大事な問い掛け。それに答えてくれる場所であればいい。(184〜185ページ)」
あれから9年が経とうとしている。悲劇を悲劇のまま終わらせないために。私たちができることは何なのか。もっとちゃんと考えたい。
・好書好日連載BackBookPacker「#44 大川小の「止まった刻」 宮城・石巻」
五月女菜穂